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ブルース・ウェインは早めの昼食の途中でナイフ、フォークを置き、そして鈴を鳴らした。
コナー・エメットはブルースの前に足を引き摺るようにして現れた。顔色は悪い。自分が何をしたかわかっているのだろう。あえてブルースはがっかりだという失望の表情を崩さなかった。
「申し訳ございません。Sir」
コナーが帽子を脱ぎ、頭を下げる。潔いのは好きだが、ブルースはわざとらしく溜め息をついた。
「君の料理を楽しみに来ているのに、がっかりだよ」
それでも普通の客ならまずいとは言わないだろう。舌が肥えているブルースだからこのわずかな味の違いに気づいてしまうのだ。それだって料理が提供される金額からすれば咎めるほどのことではないのだが。
「失望させてしまったことを残念に思います」
シェフの手は帽子をぎゅうと握り締め、これ以上追い詰めても仕方がないのだとわかってはいても、ブルースは眉間のしわを取ることができない。
何故だろう。一人の料理人の出した料理が不味かった。それだけなのに。
ブルースは自分を落ち着かせるためにテーブルを指で叩いた。
コナー・エメットのことをブルースは知っている。スーパーマンに教えられなくとも、彼はブルースにアルフレッドの次に美味いと思える料理を出す数少ない料理人の一人だ。彼の店で供されるのは温かな家庭料理で、ウェイン・タワーからは離れているが、ブルースはよく一人で来る。ここは飾り物のガールフレンドたちを連れてくる場所ではなく、ブルースにとって純然たる食事をする場所だ。
腹立たしいのは、そんな場所がブルースにとっては数えるほどしかないということだ。
「……怪我をしたのか?」
ふと目に留まったエメットの手首の痣は、薄れているとはいえ怪我というより、誰かに捻り挙げられたようだった。喧嘩などしそうにもないエメットだが、しかしここゴッサムでは何が起きても不思議ではない。
「いえ、たいしたことではありません。Sir,できますれば私もあなたのお気に召す料理をお出ししたいのですが、それも叶わぬようです。しばらく休業したいと思います」
「何だって。君は私からささやかな昼食を奪っただけじゃなく、明日も明後日もないっていう状況に追い込むんだな?」
ブルースが顔を顰めると、エメットは身を縮め、背後を窺ってから、小さな声で告白した。
「申し訳ございません。わたしは、どうも味覚障害になってしまったようで、味がわからないのです」
「何だって?」
「常に味見をしていたわけではありませんでしたから、普段通りに作ればよいと思ったのですが、はやりウェイン様のようなお方は欺けません。嗅覚も麻痺しているので、普段通りかも自信がありません。どうぞお許しください」
「医者には行ったか?」
「――精神的なもののようですので、それが解決すれば治るかもしれないと」
ブルースはポケットから小切手帳を取り出すとペンを走らせ、千切ってエメットに押し付けた。
「休業したまえ。治ったら私にちゃんとした昼食を食べさせること。君は私が食べるに値すると認めた料理を出す数少ない人間だ」
エメットは目を丸くしたが、小切手の額面をみてブルースに縋った。
「いけません、Sir.これほどにはいただけません」
「私は正当な対価しか払わない。私が決めることで、君が決めることではない」
ブルースは立ち上がり、そして店を後にした。昨晩の出来事を思えば、こうなることを自分はどこかで予測していたのかもしれない。
「くそっ!クラーク。お節介野郎め」
完全な八つ当たりだとわかっているが、それでもブルースは空に向かって吐き捨てた。
「……今の人、誰?」
ブルースを見送って看板を下げたコナーは声を掛けられて、びくりと震えた。店の奥から覗くのはブランドン、コナーの弟だ。
「ああ。驚いた。起きたなんて知らなかったよ」
「もう昼だから。店の邪魔をしたら悪いかと思ったんだ」
「そうか。でも今日はもう仕舞いにするよ。――手伝ってくれる?」
のそりと寄ってくるブランドンはコナーよりも十センチばかり背が高い。コナーよりも濃い鳶色の髪をしており、すっと通った鼻筋を持つ、美しい若者だ。だが頭に巻かれた包帯が痛々しい。
コナーはその包帯に手を伸ばそうとして、途中で降ろした。
「傷は痛まないかい?」
「平気だ。……今の人、誰?」
「お客さんだよ。ブルース・ウェイン。ゴッサムで一番有名なひとだ」
ふうん、と頷くだけのブランドンをコナーは奥の厨房へと誘った。ゴッサムで育った彼がブルース・ウェインの顔を知らないのも記憶喪失だからだ。幸いにも 社会的な生活様式は覚えているが、自分のことから家族のことまでごっそり記憶が抜けているので、コナーは弟というより見知らぬ他人と暮らしているのと変わ らない。どこまで立ち入っていいのか探りながら毎日過ごすのはつらい。
「……痛い?」
ブランドンがコナーの手首を指す。コナーはそれを袖で隠した。
「いいや。痛くない」
「そう」
わけのわからない緊張にコナーは竦む。ブランドンと一緒にいて、恐ろしいと感じたことなどないのに、今は。
医者にブランドンの記憶障害もまた精神的なものが影響しているかも知れないと告げられてから、コナーは恐ろしくて堪らない。
「腹が減った」
「何か作ろうか。味見をしてくれるといいんだけれど」
狭い厨房は普段からコナーが一人で切り盛りしている。店舗も十人も入ればいっぱいになってしまうほど狭いものだし、正直ゴッサムの王とまで呼ばれるウェインの会長の訪れるようなものではない。それでも一月に一度か二度はブルースはやってくる。ごく稀に、ゴードンと出会い共に食事をしていくが、そうでなければいつも彼は一人だった。
「コナー」
「うん?」
振り返ったコナーの顎をブランドンが掴む。咄嗟のキスを受け、コナーは「弟」の腕を振り払った。
「や、……ブランドン!何で、どうしてなんだ!」
「……したいと思ったから」
じわりと涙を浮かべるコナーにブランドンはばつの悪そうな目をしたが、謝らなかった。
「違うのかな?あんたを見てるとキスしたくなるんだけど」
「それは違う。だってお前は弟なのに」
「前は知らないけど、でも今は違う」
その瞬間、コナーの顔がくしゃりと歪み、彼は厨房の勝手口から表に飛び出した。