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20080721
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クロスオーバー、ディックものです。平調曲の続きかその前かです。

クロスオーバー先はP・A・マキリップ「妖女サイベルの呼び声」です。お好きな方本当にすいません。でも蝙蝠より先にサイベルが好きでした。





「リチャード様」
アルフレッドの驚いた顔に苦い笑みを返し、ディックは小さな荷物を掲げた。
「レポート書いたら帰るよ」
「お泊りにはならないので?ブルース様は明日まで戻られませんが」
「知ってる。メトロポリスにいるってニュースで見たから」
アルフレッドはわずかなため息とともに扉を大きく開け、若者を屋敷に招きいれた。
「夕食の時間まではおられますでしょうね。大学でお痩せになられたのではありませんか?」
「ちょっとウェイトを絞ったけど、ボート競技大会のためだから心配要らないよ」
ディックは長めの前髪を掻きあげ、そして図書室を指差した。
「本当にレポートのために帰ってきたんだ。入ってもいいよね?ブルースの許可が要る?」
「ブルース様はお気になさいませんでしょう」
含みのある答えにディックは若者らしい弾みのある動きで、ウェイン家の執事を振り返った。
「誰が気にするの?」
何せジェイソンを失ったばかりだ。屋敷にロビンはいない。ブルースがメトロポリスにいるということは、あの赤くて青い男も一緒だろうし、他に気安く屋敷に入ってくる人間はいない。パーティーでもなければブルースの親しい女性たちが招かれることなどない。
「私は存じ上げませんが、図書室には女性の幽霊がでるそうでございます。ブルース様が幼き頃にご覧になり、連夜その方の出現をお待ちになられたことがございます」
「美人ならいいよ」
ディックは当然のようにいい、そして笑った。
「ブルースが待ち焦がれるんだからとびきりの美人に決まってる。大丈夫、まだ昼だしね」
ありがとう、と手を振って、ディックはわずかな本とレポート用紙の入ったカバンを背負いなおした。



ウェイン邸の図書室というのは重厚な作りで、所蔵物が偏っている。ブルースの祖父が集めたという貴書や古文書の類に、ブルースの父が遺した医学書、それからブルースがその偏りを誤魔化そうとして並べた楽譜や辞典の類。
ディックの欲しい本は南北戦争時代の医療についてであって、たしかロビンをしていた頃にもっと楽しい本ではないかと手に取った覚えがあった。内容は、将軍たちの冒険譚ではもちろんなかった。それでもディックは読んでいる振りをした。小難しい顔で本を読むブルースの傍にいるために。

――俺ってたいがい健気に生きてきたよなあ…。

ディックは背表紙に指を滑らせながら、ため息をついた。
憧れた男はてんで子供で、まったく素直じゃない。コンビを解消したのはディックが大学の寮に入るより前のことだったが、若者の独り立ちして対等の関係になりたいという、この男心をまったく解さなかったのだ。ブルース・ウェインという坊ちゃんは。

『……て、タムが……だったら』

埃っぽく感じるだけで埃のない書架を渡り歩く。

『……誰にも、…させやしない…』

二度目に聞こえたその言葉にディックはぴたりと足を止めた。
女の声だ。囁きというよりは、どこか遠く、壁の向こうからでも聞こえるような、か細い声。ウェイン邸にはありえない女性の存在。しかも今にも泣き出してしまいそうに震えている。

ディックは書棚の裏を確かめるとき、確かに目を瞑っていた。アルフレッドが言ったように、本当に幽霊だったら怖かったので。

最初に見えたのは炉辺に座る若い女だった。月光のような淡い色の髪は長く垂れ、黒々とした瞳からは涙がこぼれている。ブルースが待ち焦がれるのもわかる美女だった。
「……なにを、泣いているの?」
幽霊かも知れない相手に声をかけたのは、ディックの密やかな騎士道精神と、認めがたいコンプレックスによる。彼女はどこかブルースに似ているのだ。

『タムがいってしまった…』

彼の声が聞こえたのか、そうではないのか、彼女はディックを見ようともせず、膝の上に涙をこぼした。
彼女の誰か大切な人間が出て行ってしまったようだ。ディックはほんの少し前に失われた「弟」を思い、胸を痛めた。
「どうして止めなかったの、そんなに泣くぐらいなら?」

『年頃の男の子が世界を求めるのを止められて?あの子にとって彼は父親、でも私は何でもない!』

それは悲鳴だった。緑の炉火はその痛みを受けたかのように青紫に爆ぜ、ディックは一歩踏み出した。
ブルースは邸を出るという自分を止めなかった。母親を探しにいったジェイソンを止めなかった。憤りもしたものだ。こんなにも彼を愛しているのに、あの堅物ときたらまるでわかっちゃいない。
心の中で責め立てた彼も、こうして一人で泣くことがあったのだろうか。

「あなた、ひどい顔色をしているよ…」
傍らに立ったディックに初めて彼女は顔をあげた。象牙の頬は色を失い、唇までもが凍えているようだ。
「ここにはあなた一人なの?」

『……獣たちがいるわ。山にはメルガがいるし』

「この邸に人間はあなただけ?」
この石造りの、冷え切った巨大な山城に彼女は一人なのだろうか。

『そうよ』

ディックは冴え冴えとした黒い瞳に射抜かれ、彼女が口を開いていないことにようやく気づいた。音ではないのだ。頭の中に直接響く声。力強い光、氷の中に揺らめく炎。本質的に、彼女はブルースと同じものだ。

『お前は誰なの?』

「俺は――」
自分は、誰だろう。ディック。グレイソン家の生き残り。かつてのロビン。今は、なんでもない。

不意に彼女が身じろぎした。ディックは咄嗟に後ずさりし、そして美しい人の顔が強張るのを見た。

「サイベル。開けてください」
朗と響く声に、彼女が窓辺に寄る。遠く、門の向こう側に立っている騎士に、彼女は表情を失くした。

「コーレン。わたし、あなたを呼んだりなどしていません」

決して大きくはないそれ、柔らかくそして剣のように鋭く彼女の声は大気に広がり、そして騎士の下にまでたどり着いた。赤毛の美丈夫が曇りのない空色の瞳を細める。
「いいえ。あなたは私を呼んだ。だから来たのです」
嫌味の欠片もなく笑う騎士に、ディックは目を閉じた。ここから先は見なくたってわかる。彼女は彼の元に行くだろう。どれだけ拒絶したって、あの空色の瞳から逃れられるわけがない。

「ブルース…」

唇からこぼれた名が床で砕けたとき、ディックは図書室に佇んでいた。
見慣れた寄木細工の床にへたり込む。本の匂い。どこか遠く、アルフレッドが働いているような気配を感じて息を吐く。

やがて自分と彼は和解するだろう。だが今後どういう関係になろうとも、ロビンが受けられたような無条件の庇護はないのだ。どれほどブルースがディックを護ろうと、自分はもうそれを受け取る資格がない。自分はもう、ロビンではないのだから。
ロビンにとってバットマンはただ一人だが、彼にとってロビンは一人ではない。

彼は俺を呼ばない。彼が誰かを呼ぶことはない。呼ばれる前にあの男が空に攫うだろう。

ブルース、ともう一度だけ呟き、夕日がすっかり沈んでしまうまで、ディックは音もなく泣いた。


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書いている人間だけ楽しいシリーズでした。ありがとうございます。 

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