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20080721
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その頃のバートラム君。


 ラウンジの扉が勢いよく開く。最初の叫び声はひしゃげた男のものだった。おそらくホール・ボーイだ。
続いて荒々しい足音が響き、その男はバーティの目の前に現れた。その瞬間、ジーヴスの背中が停止したまま、慄いて飛び上がったことがバーティーには痛いほどにわかった。
表面上は微動だにしていない。表情にも変化はない。だが相当の衝撃だったはずだ。ジーヴスは硬直していた。だが男が持っているショットガンにではない。
男のいでたちの、配色に関してだ。
紫のジャケットに緑のベスト、顔は白塗りで口元が裂けたように赤い。
世の中にはすごいインパクトを持つ人間がいるものだ、としみじみと感じたバーティのの傍らで、デンバー先代公妃は「あら、まあ」と小さな悲鳴を上げた。
「もしかして強盗とか、そういう方ですの?」
「強盗なんてちんけなもんじゃあねえ。俺は犯罪の天才」
芝居がかった身振りで一礼し、男はジョーカーと名乗った。
「”ちんけ”って何ですの?ごめんなさいね、わたしくアメリカの英語はよくわからなくて。あなたもゆっくり喋ってくださると助かるのだけれど。ほらアメリカの方って、二階のことを一階とか仰るでしょう。わたくし混乱してしまって。……何の話でしたかしら。あら?」
滔々と喋る先代公妃はしかし優雅の極みそのもので、小さな美しい手を差し出し、ジョーカーに席を勧めた。フロアにいた人間は追い立てられ、壁際で携帯電話を取り上げられている。
「何だかよくわかりませんけど、お茶でもいかが?他の方ももうお仕事を終えられたみたい。どうしてあんなに端っこに寄せているのかしら。何だか牧羊犬に追われる羊みたいね。ああ。もしかしてどこかに閉じ込められるのかしら。わたくしも柵に入れられますの?」
すでに給仕がどこかへ消えうせているので、傍らにいたジーヴスが代わりに茶を出し、バーティはただ黙ったまま、そのティーテーブルを囲んでいた。犯罪に巻き込まれたことはわかるが、どうあれ英国男子がレディを置いて逃げるなんてありえない。しかも彼女は友人であるピーター卿の母親だ。ウースター家の人間は決して友を裏切らない。
「いやいや、あなたのようにご親切なご婦人を閉じ込めるなんていたしませんよ。もちろん、おとなしくしていただける限りですがね」
にたりと笑ったジョーカーに、先代公妃は小首を傾げた。
「そうですの?あなたは強盗ではないようだけれど、そうすると一体何なのかしら。銃を持ってホテルに入ってくるなんてアメリカでは流行ってますの?あら、かわいらしいネクタイ!ねえ?」
ジョーカーのカラフルなネクタイに目を留めた先代公妃はバーティを振り向き、同意を求めた。
「そうですね。かっこいいなあ…」
全体をみれば奇抜だが、ネクタイ単品をみればモダンで面白みのある一品だ。紺のストライプのスーツに合うかも知れない。バーティは褒められて満更でもなさそうなジョーカーに身を乗り出した。
「もしかして靴下もおそろいだったりします?」
「おお!気付いたかよコンチクショウ。俺様のささやかなエスプリに!」
エスプリ?と内心で首を傾げつつ、市松模様の靴下にバーティは目を輝かせて、そして、――そして背後の冷気に恐る恐る振り返った。
「ジーヴス…。君の言いたいことはわかってる」
「お察しいただき、大変ありがたく存じます」
氷点下の眼差しで「その靴下はいただけない」と無言の圧力をかけてくる己が従僕に、バーティはいまだジョーカーの手の中にあるショットガンよりも身の危険を感じた。
「ところでミスタ・ジョーカー。あなたは一体全体何だって、僕らを囲い込むことになさったんです?」
「ああ。そうだった!よくぞ聞いてくれたな。実はこのメトロポリスにハーレクィンの格好をした泥棒が現れたとかでな。そいつに用があるのよ」
「ハーレクィンというと、そこの黒とオレンジのレディではないのかい?」
道化の仮装をしたレディははち切れそうなナイスバディをぴったりとしたタイツに包んでいる。彼女も一筋縄でいかないようだということは白塗りの顔にそこだけ鮮やかな赤い唇でわかった。バーティ、近付くな彼女は危険だ、と囁く心の声に従い、若者は目を伏せた。
「いいや。違う。黒と白の野郎だ」
「黒と、白の、ハーレクィン…」
それは、もしや、悪名高きデス・ブリードン氏ではなかろうか。バーティはちらりとジーヴスを見、有能なる頭脳はわずかに目を細めた。
「昨日の新聞に載ってございます。輸送中の日本の古美術一点を持ち去ったとかの由にございます」
「そう!それよ。俺様はそれを求めている。そいつが自ら持ってくるか、それとも警察が探し出してくるかはわからねえが、ここにいる奴らと引き換えってわけだ」
ついでに道化野郎にも挨拶をしてやらないとな、とにこやかにジョーカー氏はショットガンを担ぎ直し、立ち上がった。
「さてさて。人質の子羊ちゃんたちには金目のものをいただこうか。具合が悪い奴は容赦なくぶっ飛ばすから、いい子にな」
ひゃひゃひゃは!と耳を突く弾けた笑い声にもデンバー先代公妃は動じず、ただ小首を傾げた。
「ねえ、ジーヴス。厨房に行ってお菓子をもらってきてちょうだい」
「はい、先代公妃様。あの者たちがわたしめを通してくれるようでしたら、すぐに」
「構いませんわね、ジョーカーさん?ちょうどお昼だし、お腹が空きますでしょう?サンドイッチとか、簡単なものでもいいわ」
ジョーカーはくるりと目を回し、鷹揚に頷いた。
「もちろん、構わないさ。厨房だってすでに確保してるんだからな。変な真似したらどうなるかわかってるだろう?」
ついと持ち上げられた銃口にジーヴスは恭しく頭を下げた。
「もちろん、承知しております。ではご主人様、お許しいただけましたら、必要なものを整えてまいります」
「ジーヴス。こういうときはヴィクトリアン精神なんかいらないんだ。わかってるだろう?」
バーティが抑えた声で囁くとジーヴスはほんの少しだけ、口元を緩ませた。
「はい。ご主人様。ノッティンガムシャーのお方からいただいたワインはお出ししますか?」
バーティは瞬きし、少しだけ頬を紅潮させ口を引き締めた。
「あれは部屋にあるだろう。ミスタ・ジョーカー、長丁場になるならワインとチーズはおいしいものがいいと思うんだけれど、どうかな?僕の部屋は上の階だから逃げ道はないし、いいよね?」
「それも取りに行きてぇってか。お前ら変な奴らだぜ。いいさ、行ってこい」
「では行ってまいります、ご主人様」
ジーヴスの背中を見送り、そしてバーティは身を深く椅子に沈めた。
銃は怖い。訳のわからない人間も怖い。だが自分は臨時雇いの従者に包丁を持って追い掛け回されたことだってあるのだ。それに比べたら何だというのだ。少なくとも個人攻撃じゃないじゃないか。
「ジョーカーさん、お砂糖はおいくつ?」
砂糖壺を開ける先代公妃を見上げ、それにしても可笑しな茶会だとバーティは目を細めた。

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